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孤独と闇と生きるということ

孤独と闇。持ってない人なんていないのではないか。どんなに笑い上戸でも普段は隠してるし、常に闇を表に出している人もそうそういない。闇を晒したとき、愛する人に嫌われないだろうか?そんな想いが孤独を産む。

孤独は不要なのか?僕はそうは思わない。孤独とは自分と向き合う時にどうしても必要だ。自分が過去に冒した間違いと向き合う。そうすることで自分の人生にどれだけやり残した事があるのか?を見る。自分の愚かさから目を背けることは出来ない。未来にまた愚かな選択をしないためにだ。

親になるということで嫌でも自分の孤独と闇を直視させられる。しかし、逃げることもできる。できてしまう。アルコールなのか異性なのかドラッグなのか。逃げ方なんて五万とあるだろう。仕事もその1つなのかも知れない。

人は最初から親なのではなく、子どもに親にさせてもらって親になっていく。ある種正しい。自分の孤独と闇という漆黒を子どものために少しずつ洗濯(選択)していく。子どもに誇れなかったあの時の自分の弱さを認めるしかない。もしあなたが親で、自分が子どもを律していると思っているなら間違っているかも知れない。本当に律されているのは親なのだと。

さて、最近話題の虐待死だ。育児に疲弊し、新しい旦那に捨てられないために子どもを虐待したと。それは母親が弱かったから仕方がなかったことなのだという言葉を見る。弱ければ何をしても良いのか。弱ければ人を殺めても良いのか。弱ければ新幹線に乗り込んで無差別に人を殺しても良いのか。弱くてもやって良い事と悪いことはあるのではないか。

弱さ。自然の動物を思い浮かべるとわかりやすい。追い詰められたネズミはネコを噛み殺す。なぜ?やらなければやられるから?確かにそうだろう。世の中の多くの醜い出来事の根源にあるのは「弱さ」だ。

自分の話をしよう。今でこそ体格もよく体格的に強そうと言われているが、若い頃は体重も50kgにも満たないガリガリだった。体格的には敵わない相手と喧嘩をしたり、というか体格的に僕が弱いことを知っていてワザと喧嘩を売ってきて、注文通りフルボッコにされたりしたものだ。体格的に不利な状況をどうにかして有利にできないものかと勉強もした。何かを得て実践しようにもやはり体格の差が精神的に追い込んでくるので何もできない。またフルボッコになる。どうしたらあの独特の緊張状態を回避できるのか。精神に関する本を読んだ。恐怖を克服しようとすることなど無駄であるということを学んだ。恐怖とは生命を守るための本能であり機能だからだ。

結局、自分より体格の良い相手に喧嘩で100%勝つ為の方法なんてものはなかった。少なくとも自分の実践した限りでは。そんなものがあったのなら、もし、自分の弱さや愚かさを簡単に認めて乗り越えるための方法があるのなら、僕はこのNote記事をまた有料にしていたかもしれない。つまり、誰にとってもの正解なんて無いのだ。

正解なんてものはないから、だから人は誰かとコミュニケーションをとる。自分と同じ意見、共感する意見をみるためではなく、むしろその反対で自分と異なる意見を獲るためだ。あなたと異なる意見を言ってくれる友達を見つけるべきだ。あなたを否定したくて異なる意見を言う人ではなく、あなたを愛しているからあなたに自分の思っていることを言ってくれる人だ。

自分はそうは思わない

あなたは友達に何回こう言ったことがありますか?また、そのように言う友達はいますか?そして、落ち着いてその意見を聞けますか?

そんじゃまた。

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テモナ株式会社でSenior Developerをやっています。

サンキューなっ(CV:野沢雅子)
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不死身のトキモト

喘息・椎間板ヘルニア・便意と戦う技術系おっさん。技術系はQiitaとかに書いてます。 https://qiita.com/tokifuji
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